八代目が 結婚して 那智勝浦町に
居住した時は 友人・知人もなく
勝浦の中心部を歩いても 誰一人として
挨拶もすることのない 日々でした
それを 乗り越えて 今日あるのは
皆様の お陰です
が 両親と家族の支え と 少しだけ 自分自身の精進もあったと思います
それは 高校三年の卒業を 控えた時期・・・・・
振り返ると この時が
八代目にとって 大きな 『転機』 でした
それまでの 小学校~中学校~高校 まで
本当に 目立たない大人しい 子供でしたし
小学生の頃は いじめにあったこともありました
その頃 大学進学の行き先は 殆ど 関東・関西 方面でした
八代目は 九州の 大学を選んだのです
理由は 遠くに行きたかったからです
そして なにか このままではいけない
自分自身 変えなければ いけない
思いが ありました
今 考えると 九州を選んだのは
おばあちゃん が 長崎から この地に
嫁いでいてきた から かもしれません
そして いよいよ 入学・・・・
初めての九州 には 七代目"父親"が 付き添って行ってくれました
八代目は "父親"が 40歳の時にできた子
今の 八代目の年齢と そう変わりません
無事 入学式もすませ いよいよ"父親"の 帰省です
その頃は 夜汽車寝台です
"父親" 博多駅まで 送って行って
たしか 博多駅の地下で 鍋を囲み~ 天津甘栗を買ってくれて
いよいよ 夜汽車で "父親"が 大阪に向け出発です
その去っていく"父親"の 姿を見て
八代目は 涙が 止まりませんでした
自分で 選んだ 九州
でも その頃の九州は 遠く
一人になってしまった との思いもあったのでしょう
今思い出しても 大粒の 『涙』 でした
この 『涙』 が 八代目の 『転機』 です
"父親"は 大阪まで 一睡もできなかったそうです
親 って 有難い存在ですね
今 振り返ると何一つ 親孝行できませんでした
心残りです
先日は大変お世話になり、誠にありがとうございました。
>今思い出しても 大粒の 『涙』
このくだりにウルっときました。
自分も関東の大学へ進学する際、空港で見送ってくれた父親の姿が今も目に焼きついております。
ユニークさが過ぎる面もありますが、兄妹に対して分け隔てなく愛情を注いでくれる父親を誇りに思っております。
幼い頃、映画や食事に連れて行ってもらうときは必ず兄妹一緒でしたが、兄と妹が友人や親類のところへ泊まりで不在の際、一度だけ父と2人きりで出かけたことがありました。
そのときに実感した父の愛情の深さがよみがえります。
(当の本人は一切覚えてないようですが)
帰郷からの帰路、現在は九州から関西方面への電車+新幹線、いつも寂しい顔をする自分に「気持ちはよく分かるばい。無理せず寂しさを噛み締めて、また明日から仕事を頑張れよ」と言われます。
温かい父ならではの励まし方だと思います。
今晩久しぶりに父へ電話してみます。